米津玄師さんは数々のヒット曲を作り出していますが、なぜそんなにもヒットさせられるのでしょうか?
子供時代の過ごし方に秘密が隠されているようです!
小学生の頃は絵を書いて過ごし、中学生の頃にバンド活動を始めたといいます。
祖父の家の周りの環境からも影響を強く受けていたとも話しています。
米津玄師さんがテレビ番組「日曜日の初耳学」で自身の生い立ちについて語っていたことをまとめました。
米津玄師の生い立ち(子供時代)
小学生のときは漫画家になりたかった話や、バンドは中学生になってから始めたことなどを書いています。
小学生の頃は漫画家になりたかった
米津玄師さんは小学生の頃は、人とあまり話すことはなかったといいます。
理由は周りにいる人の言っていることがよくわからず、話を振られてもなんて返したらいいのかがわからなかったようです。
そのため友達と外で遊ぶよりも、家で絵を書いていることが好きだったと言います。
本もたくさん読んでおり、ジャンプなどの少年漫画や小説も好きでした。
小学生の頃は本気で漫画家になろうと、絵の練習もしていたようです。
その絵の練習が今に生きています。
CDのジャケットを自分で書いたり、曲「アイネクライネ」のミュージックビデオの絵コンテは全て米津玄師さんが自分で書いたものです。
なぜ漫画家にならなかったのか?
漫画「ナルト」を読んでいる時に、ジャンプの端っこにこんな文章が書かれていたみたいです。
- 締切に合わせるために寝ずに書きました。
- アシスタントも誰も寝ていません。
- 押し入れに横たわって寝ている人もいます。
- 他にあと5ページ書かなければいけません。
これを読んで、漫画家は無理だと思って諦めたと言います。
米津玄師さんは1日10時間は寝ると言っています。
「漫画家は睡眠時間が短いから、早死する人が多いといいますよね。
でも、水木しげるさんは93歳まで生きましたね!
あの人はめっちゃ寝てたから。
睡眠って大事です。」
と林先生と話していました。
中学生になってからバンドを始める
米津玄師さんは中学になってからバンドを始めています。
しかし、バンド活動は長くは続かなかったといいます。
人と何かをやるのがどうしても苦手で無理だった。
何か意見があっても「あぁ、それでいいです。」と言ってしまうため自分を出せなかったと言います。
米津玄師は一人で曲を作り始める
初音ミクとボカロの登場で、自分ひとりでも曲が作れることがわかった米津玄師さんはニコニコ動画で投稿し始めます。
「ハチ」という名前で、投稿を始めるとすぐに100万再生を超えました。
イラストも自分で書いています。
新しく出す曲もミリオンを達成するので、ニコニコ動画の中で有名な存在になっていきます。
ニコニコ動画では裏方のような存在になっていましたが、自分でもやっていきたいという思いも抱えていました。
表に出ることを決意
「サンタマリア」でデビューしています。
ミュージックビデオには自身も出演し、表舞台に初登場しました。
「アイネクライネ」のミュージックビデオの絵は全て自分で書いています。
菅田将暉に直接コラボを依頼した「 灰色と青」も大ヒット。
チェンソーマンの主題歌にもなった「KICK BACK」はアメリカレコード協会(RIAA)からゴールド認定を受けました。
これは日本人初です。
ジブリの宮崎駿監督からオファーで映画「君たちはどう生きるか」の主題歌「地球儀」も歌っています。
「地球儀」の制作にかかった時間は4年です。
宮崎駿監督は「パプリカ」が好きでよく口ずさんでいたといいます。
それを見た鈴木プロデューサーが「パプリカの作者に依頼しませんか?」と提案したのが始まりだったと言います。
「Lemon」「パプリカ」は祖父の影響を受けていた
「パプリカ」を作成する時に思い出されたのは、祖父が住んでいた田舎の風景だったと言います。
祖父の家に遊びに行った時に見た山や川から影響を受けて、「パプリカ」を作詞しています。
「Lemon」は制作中に祖父が亡くなり、途中で作り直したといいます。
肉親が亡くなったことで思うこともあり、かなり悩みながら作った曲は大ヒットしました。
「Lemon」で米津玄師さんをしったという人もいるくらいです。
米津玄師さんの曲にはよく「影」という言葉出てきます。
米津玄師「どうしても影に目が行く」
人の心には光と影があって、人は誰でもどこか壊れている部分があるという。
まとめ
米津玄師さんは子供の頃は漫画家になりたくて絵の練習をしていましたが、寝られないことがわかったので諦めています。
しかし、この絵の練習が曲を出す時に役に立ちました。
Lemonやパプリカなどヒット曲の裏側には、祖父からたくさん影響を受けています。